株式会社セルム(CELM)

人的資本経営は、長期利益創造のためにある

企業経営のコアは「長期利益の創造」

加島 昨今、「エンゲージメント」という言葉に代表されるように、働く人にとっていかにやりがいのある、ハッピーな組織をつくるかということに注目が集まっています。しかし、そうした取り組みは、楠木先生が提唱されている企業独自の戦略ストーリーがあってこそ成果が出るのではないかと感じています。
とりわけ人的資本経営を巡る議論においては、長期的な目線で人に投資し、リターンを生むという、本来の「資本」の視点が少々欠けているように思われます。日本企業は長年にわたって人を「コスト」として捉えてきたために、欧米企業に比べて人への投資額に大きな差が生まれてしまったという指摘もあります。

楠木 おっしゃるように、「人的資本」あるいは「人的資本経営」という言葉は正しく理解されておらず、安直な流行り言葉として使われているように感じます。本質的な意味を押さえておくことが大切です。
まず、企業経営の目的とは何か。それは「長期利益の創造」です。長期利益が出ていれば、雇用を生み、守ることもでき、労働分配もでき、法人所得税も支払える。これが、株式会社がなしうる最大の社会貢献だと私は思っています。
長期にわたって利益が出ているかどうかは、競争の中でその企業が独自の価値を創造できているかを測る、もっとも正しい指標です。

加島 「長期」の時間軸をもって利益を出し続けることが、企業の本来の社会的使命であるということですね。

楠木 私は、経営者の方に、「とにかくシンプルに考えてください」とお願いしています。余計なことは考えずに「どうやったら長期的に儲かるか」のみを基準に判断し、行動してください、と。
ここでの「余計なこと」とは、誤解を恐れずにいえば、例えばSDGsのような話です。「海の豊かさを守ろう」「すべての人に健康と福祉を」といった主張には誰も反対しません。「嘘はいけません」「遅刻はしないように」と同じで、当たり前の話だからです。非営利組織ではなく企業であるならば、そちらを優先して長期利益を損なっていては元も子もないのです。
企業経営のコアは、あくまで「長期利益の創造」。それができて初めてSDGsのような社会貢献ができるのです。「貧困の撲滅」を目指すのであれば、まず従業員の給料を上げてください、そのために儲かる商売を創ってください、という話です。

ストーリーの「あらすじ」は経営者が描くもの

加島 楠木先生が提唱している競争戦略のストーリーも、目指すべきは「長期利益の創造」ということですね。

楠木 競争の中でいかに長期利益を生み出し続けるか。その手立てが、経営者が描く戦略のストーリーです。戦略ストーリーとは「こうなるだろう」という将来予測ではなく、「我々はこうするのだ」という意志の表明に他なりません。その戦略ストーリーを構想して社会に表明することが、経営者がやるべきことの一丁目一番地です。
昨今では「パーパス経営」という言葉が注目されていますが、そもそも出発の時点でパーパス、つまり目的があって、そのために「業を企てる」のが「企業」です。パーパスがない企業というのはありえません。

加島 楠木先生から見て、戦略ストーリーによって大きく生まれ変わった、そんな企業はありますか。

楠木 枚挙にいとまがありません。「キヤノン電子」などはその一例ですね。古くからある上場企業で、以前は親会社のキヤノンの製造子会社にすぎず、売上高経常利益率は1.5%の実質赤字経営に陥っていました。それが、1999年にキヤノンの役員から移籍して社長に就任した酒巻久さんという方が、「利益率15%以上で世界トップレベルの高収益企業に再生する」との目標を打ち出し、徹底した生産性向上の経営改革を進めました。その結果、それまでとはまったく異なる高収益企業に生まれ変わったのです。経営者の描いた戦略ストーリー次第で会社はいくらでも変えられる、その好例ですね。

加島 そのような企業の戦略ストーリーは、どうやってできていくのでしょうか。

楠木 戦略ストーリーには、例えていうなら「あらすじ」のような原型があります。これは基本的には、経営者が1人でつくるものです。いろいろな人から着想を得ることはあると思いますが、少なくともある部署が請け負ってつくったり、会議で話し合いながら作るようなものではありません。
その「あらすじ」の幹の上に、いろいろな人が枝葉を広げてストーリーを育てていくこともありますし、気づいたら枝葉が生い茂っていた、ということもあります。しかし、それは後々の話で、原型の「あらすじ」は特定の個人の意志の表現なのです。その役割を担い、明確な「あらすじ」を描くのは経営者の仕事です。

ストーリーがなければ「人」に投資できない

楠木 人の採用も、すべてはその「戦略ストーリーの実現に貢献するかどうか」が基準になります。経営者が思い描く戦略ストーリーの実現のための人が必要になるわけですから、ストーリーによって求める人材も変わってきます。客観的・普遍的な「優秀な人材」というものは本来ありえません。
それを踏まえたうえで、本題の人的資本の話になりますが、なぜわざわざ「資本」というのか。「人的資本」という言葉が使われるようになった背景には、何かしらの理由があるはずですよね。
私の見立てでは、ここ数年の人手不足から「人を大事にしよう」といった文脈で「人的資本」という言葉が注目されてきたという側面もあったと思っています。ところが、その「資本」という概念をきちんと理解しているのか、「資源」と「資本」の意味をどう区別しているのか、聞いてみたいと思うことがよくあります。
「資源」と「資本」の違いを、私はよくナポレオンの例で説明します。ナポレオンは戦地から凱旋をした際には莫大な財宝をもち帰りました。しかし、それは「富」です。「資本」という意味ではゼロのものです。ナポレオンは「資本ゼロの大金持ち」だったのです。
ここに富(Wealth)と資本(Capital)の違いがあります。富というのは「現時点で所有しているものの量」であり、資源(Resource)もそれに近い概念です。対して、資本というのは、「将来価値を生み出すもの」。
それをふまえて、「人的資源」と「人的資本」の意味を対比させると、人的資源は労働市場から買うもので、買った時点での価値が最も高く、使用する過程で価値が逓減していきます。例えば、新しいコートを買いました。そのコートは買った時点での価値がもっとも高く、着ているうちにほつれたり破れたりして価値が減っていく、これに似たようなものです。
人的資本はその逆で、将来生み出す価値に期待する「投資(investment)」の対象です。

加島 価値が最大化する時点が「現在」なのか「将来」なのか、という明確な違いがありますね。

楠木 つまり、人的資源と人的資本では、人を「労働力」として見るか、「投資対象」として見るかの違いがあります。単なる言葉の違いだけでなく、両者はまったくの対(つい)概念なのです。人的資本経営を語るうえでは、まずこの前提を理解すべきだと思います。

加島 経営の課題や緊急度などによって、即戦力の「資源」を外部から調達する場合もありますし、「資本」に投資して将来的にリターンを回収する場合もあります。経営者に必要なのはその見極めで、そこにこそもっとパワーをかけることが必要だと感じます。

楠木 人が「資本」である以上、経営者に求められるのは「気前のよさ」です。
ここでいう「気前のよさ」とは、賃金のことだけではなく、仕事についても「いい仕事をして成果を出してくださいね」と期待を込めて任せる。先に「ギブ」する。これが投資のいちばんの特徴でもあります。
逆にシビアないい方をすると、期待を裏切られたら「損切り」もありうるということです。「あなたには投資の価値がなかったので、ここまでにします」と契約を更改しないこともあってしかるべきでしょう。もっともその前提として、労働市場の流動性が確保される必要があります。

加島 同時に、投資のリターンが得られるように、つまり投資対象である人的資本が事業に付加価値を生み出し、期待した成果が得られるように、経営層や現場のリーダーは支援しなければならない。ここに、人的資本経営におけるリーダーシップの意義がありますね。

個人にも人的資本としての「ストーリー」が必要

加島 ここまでのお話を整理すると、まず、経営者が描く戦略ストーリーがある。そのストーリーの実現に向けて人を採用する――という順番になりますね。そこで、今度は企業や経営者から、そこで働く「個人」に視点を移したいと思います。

楠木 「人的資源」であれば、個人は労働市場において、現時点の価値、すなわちキャリアやスキルで「買い物」されてしまう傾向があります。対して「人的資本」であれば、企業側から見て投資の対象になります。
企業に投資してもらうためには、「自分は将来こういうことがやりたくて、こういうスキルを磨いている。だから自分に投資してください」とアピールする必要があります。「あなたは何ができますか?」と聞かれて「プログラミングができます」「英語が話せます」というのは、現時点で自分がもっているスキルを説明しているだけです。これだけでは「買い物」されてしまうので、それらにプラスして相手に期待させる「何か」がなければいけません。すなわち、個人の側にも長期的視点で考え、時間やお金を自分に投資して、相手が認識する価値を高めていく「自分を資本と見る」観点が求められます。

加島 そう考えると、個人も残念ながら「資源」止まりの人と、「資本」として価値を高めていける人。で分かれてしまうのは必然かもしれません。そして、後者であり続けるためには、キャリアを形成していく個人の中にも「戦略ストーリー」が必要です。

楠木 そうです。ダイナミックな奥行き、つまり「時間軸」を、企業だけでなく個人ももたなければなりません。
それと同時に、個人が「資本」の観点をもつためには、本当に転職するかどうかは別として「自分は他のどこに行っても働ける」というオプションを常に心の中にもっていることが大事です。逆にいうと「自分はこの会社に留まるしかない」と思っている人は、「資本」の観点をもって自己投資することは少ないのではないでしょうか。

加島 個人が「資本」としての自覚を持ち、自分を育てなければならない。会社組織にいても個人の自立が求められる、ということですね。

楠木 オプションをもつことは、仕事をするうえで健全なことです。かつては「1つの会社に定年まで勤め上げる」ことが当たり前の時代もありましたが、よくよく考えると、それ以外のオプションがない状態は、個人が企業に従う以外に選択肢がないわけで、人間としても非常に辛い状態です。これからますます長く働く時代になりますから、ますます無理がある考え方のように思います。

加島 本来、個人と企業とは互いに選び、選ばれる対等な関係にあります。そもそも、人というものは、本来社会が共有する財産であり、企業は社会から借りているにすぎないと私は考えます。
その観点から人を「資本」としてとらえ直すと、1つの会社に長く押しとどめること自体がそもそも無理な話であって、企業は人に対して場所と機会を提供し、人を育て、やがて社会に還元していく使命があるのではないか、とも思います。産業界に多くの人材を輩出しているリクルート社が好例です。そのような企業が、高く評価される時代になっていくと思います。

リーダーとは、周囲に長期視点の回復を促す人

加島 企業の中には、経営者が描くストーリーに働く個人の側が追いつかず、現場がかえって戸惑うようなケースも見受けられます。経営者のストーリーと、個人のストーリーの不一致ともいえるでしょうか。

楠木 そのような事態を防ぐポイントは2つあります。1つは、儲かる商売のストーリーを構想するのは、あくまで経営者の責任だということです。働く個人が、商売の儲け筋の根本を創るところまで責任をもつ必要はありません。そこにコンフリクトがある場合は、自分が理想とする戦略ストーリーをもった企業に移ればいい。
もう1つは、繰り返しになりますが、やはり時間軸の取り方、つまり「長期」の視点で考えているかどうかが重要です。
企業をとりまくステークホルダーとして、「経営者・投資家・従業員」のシンプルな3者関係を考えてみましょう。短期視点で捉えると、すべてのステークホルダーは、一方の利益が他方の利益を損なうというトレードオフの関係です。利益を優先して環境対策をおろそかにすると「環境に配慮しろ」と投資家からいわれる。人件費を抑えて価格を維持しようとすると「給料を上げろ」と従業員から突き上げられる。ステークホルダー間で常に衝突が生じている状態です。
ところが、長期視点で考えると、経営者が「稼ぐ力」のある商売のストーリーを構想する。従業員がその実現のために力を合わせて仕事をすることで、「稼ぐ力」がますます高まる。結果的に労働分配が増え、株価も配当も上がる。経営者・従業員・投資家のすべてがハッピーになります。ごく自然に3者間のトレードオフが溶けて、トレードオンの関係になっていくのです。

加島 経営者と従業員の関係も、長期の時間軸でものを見られるかどうか、という話に帰結しますね。ESG経営やSDGsにしても同じことがいえそうです。

楠木 しかしながら、人間社会の発展というものは、人々を常に短期視点へと振り向けていく傾向があります。スマートフォンがない時代は、駅で待ち合せるにも「相手が来なかったらどうしよう。掲示板にメモしておくか」などと先のことを考えていました。ところが現代では「とりあえず着いたら連絡入れます」で終わりです。視点がどんどん短期的になっていくのです。
株式市場も同様で、今や「四半期ごとに即時ウェブサイトに決算報告を公開せよ」などといった制度が整備されています。これでは3年計画であっても、短期視点の積み重ねになってしまいかねません。
放っておいたら短期視点に流れていく性質があるのは、企業の内部も同じです。では誰が企業において長期視点を回復させるのか。それが、リーダーです。企業が長期の視点をもち続けるためには、長期視点を回復させ周囲にも気づきを促す人が必要で、これが、私の考えるリーダーの定義であり役割です。

加島 企業の戦略ストーリーを軸に人事や組織、さらにはリーダーシップを語ることで、複雑に見える人的資本経営の課題が非常にシンプルに整理されることを実感しました。
人を「資本」と捉え、投資することで価値を高めていく。その将来価値の総和が、長期的に企業価値の向上をもたらす。人的資本経営の文脈を踏まえた戦略ストーリーを描くことが、経営者にとって今いちばん急がれる課題だと思いました。

一ツ橋ビジネススクール教授
楠木 建 氏
一橋ビジネススクール教授。専攻は競争戦略。特に企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授(2000)を経て、2010年から現職。著書に、30万部を超えるベストセラーとなった『ストーリーとしての競争戦略』(2010、東洋経済新報社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)他、共著に『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019、宝島社)他多数。
株式会社セルム 代表取締役社長
加島禎二

対談を終えて

楠木先生の言葉を聞き、私も1人の経営者として、改めて経営の原点に気づかせていただきました。特に「経営」や「資本」という、誰でも知っている言葉がもつ根源的な意味をひも解いていただいたことで、「人的資本経営」の本質を再認識し、思索を深めることができました。その気づきを、ここでシェアさせていただきます。  
昨今、日本企業に対する賃上げの要請が高まっています。一方で、「賃金」とは本来「人が生み出した付加価値に対する対価」であるはずです。つまり、人が付加価値を生み出せた分だけ、その人が対価として賃金を受け取るべき、ということが教科書的な前提です。 しかし、今日においてビジネスに付加価値をもたらしている主要なファクターとは何かといえば、それはデジタライゼーションです。 したがって、今、デジタルに投資することを最優先するのは、経営者からするとしごく当たり前のことであり、相対的に付加価値を生んでいない「人」にもっと投資すべきといわれても、ビジネスとしての合理性に乏しい。それが経営者の偽らざる本音ではないでしょうか。 このことを、楠木先生の提唱されている「戦略ストーリー」に当てはめると、「デジタル」ではなく、「人」によって生み出す付加価値とは何なのか、ということを問い直し、戦略ストーリーに織り込まないことには、経営者としても本気で人への投資を増やすモチベーションが生まれないのではないか、と思うのです。 では、「人」によって生み出す付加価値とは何でしょうか。デジタル技術の発展がもたらすものとは、あらゆることが限りなくシームレスに、ストレスフリーになっていくことです。人は、一時はそれを歓迎しますが、すぐに「当たり前」になり、そこに価値を感じなくなるでしょう。 楠木先生は、「経営とは長期利益の創造である」といいました。その長期利益を生む源泉は「顧客に選ばれ続ける」ことです。BtoBであれBtoCであれ、刻々と変わり続ける顧客に夢中になって向き合い、エンゲージメントを育み続けることこそが、企業に長期利益をもたらします。そこにこそ「人」の付加価値が問われるのです。 つまり、デジタル化がもたらす便益が平準化されたその先に、「人」によって顧客との長期的なエンゲージメントを築き、長期利益を生み出せる地平が広がっているのです。「デジタル化の先」を見据え、長期的な時間軸をもった戦略ストーリーを描き、人に思い切り投資できる、そのような企業こそが勝ち残るのではないかと思います。 「長期利益を創造する戦略ストーリーがあって初めて、人という『資本』に投資ができる」、楠木先生のこの言葉を私なりに解釈し直すと、「人で付加価値をつくり続け、顧客に選ばれ続けるという戦略ストーリーがあって、初めて人という『資本』に本気で投資ができる」ということではないかと思います。 加島禎二

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